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野庭高校 吹奏楽部の末路や事件とは?中澤忠雄と高島礼子、偏差値は?

 

神奈川県立野庭(のば)高校は、弱小だった吹奏楽部が中澤忠雄先生の指導により、全国大会の常連校になりました。そして、その実話が2016年7月に、TBS「仰げば尊し」によってドラマ化されました。

 

野庭高校は現在統合されてもう学校はないそうです。吹奏楽部の末路や事件、偏差値。高島礼子さんが卒業生だったという事など、いろいろ気になったので、野庭高校の吹奏楽部を中心にしらべてみました。

 

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野庭高校・吹奏楽部誕生

神奈川県立野庭高等学校は、1975年(昭和50年)に神奈川県横浜市港南区野庭町に新設され開校され、第1回入学式の時は、男子生徒100名・女子生徒80名の計180名が入学。

 

野庭高校は、最初校舎がない状態で、県立横浜日野高校のグランドの隅を間借りし、プレハブ校舎だったようです。校舎が完成したのは、1977年(昭和52年)。

 

吹奏楽部は、地元の横浜市立港南中学校から入学してきた生徒2名で、野庭高校が開校した次の年にスタート。

 

中澤忠雄と野庭高校吹奏楽部

中澤忠雄さんは、神奈川県に生まれ奈良県で育ち、中学校の時に吹奏楽を始めて、高校は天理高校に進学し名門の吹奏楽部に入部。卒業後は東京芸術大学音楽部に進学し、在学中に日本フィルハーモニー音響楽団に入団。

 

その後は、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、NHK交響楽団、読売日本交響楽団を経て、チューバ奏者のプロとして活躍していました。

 

そして、ドラマ「仰げば尊し」でもあったように、中澤忠雄さんは交通事故にあってしまい、事故の後遺症によって楽器が思うように吹けなくなったため、オーケストラを引退。

 

引退した後は、野庭高校の近くで音楽教室を開いていました。そんな時、知り合いの楽器屋の店主から野庭高校・吹奏楽部の練習を一度見てくれないか?と頼まれ、それがきっかけで吹奏楽部の指導者になりました。

 

中澤忠雄さんが野庭高校の吹奏楽部顧問に就任したのは1982年(昭和57年)で、その前の年までは、県大会への代表選考の対象にもならないくらいのレベル。

 

しかし、野庭高校の吹奏楽部は中澤忠雄先生の指導により、いきなりその年に関東大会で銀賞を受賞するまでになりました。

 

野庭高校は偏差値が高くない学校で、不良がたくさんいて荒れていた高校。吹奏楽部にも不良はいたため、中澤忠雄先生は厳しい指導で、生徒達とのいろいろな問題をクリアしながら、吹奏楽部はどんどん実力を上げていきます。

 

野庭高校吹奏楽部が起こした奇跡

中澤忠雄先生の厳しい指導により、1年目にいきなり吹奏楽コンクールの関東大会で銀賞を獲得した野庭高校吹奏楽部は、翌年1983年(昭和58年)には全国大会まで勝ち進み、しかも金賞を受賞するという奇跡を成し遂げました。

 

そして、1984年・1986年・1988年・1992年・1993年・1995年と、野庭高校吹奏楽部は全国吹奏楽コンクールで7回も金賞を受賞しています。

 

中澤忠雄先生の死去

中澤忠雄先生は、1994年(平成6年)に胃がんの摘出手術を受け、病と闘いながら野庭高校吹奏楽部の指導を続けましたが、1996年(平成8年)3月に行われた、吹奏楽部の期演奏会での指揮を最後に引退。

 

そして、その後癌が転移し、1996年(平成8年)8月18日に61歳の若さで亡くなられました。

 

中澤忠雄先生が引退した後、野庭高校の吹奏楽部が金賞を1度も受賞できなかったことを考えると、本当に素晴らしい指導力だったんだなと思います。

 

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野庭高校の偏差値や事件

野庭高校は2003年4月から神奈川県立横浜日野高等学校と統合され、神奈川県立横浜南陵高等学校に校名が変わっています。

 

横浜南陵高校の偏差値は、一般が48・健康福祉が45で、野庭高校も偏差値は高い学校ではありませんでした。

 

中澤忠雄先生が亡くなられた後の1998年7月には、野庭高校の吹奏楽部で、女子生徒がいじめを苦に自らの命を絶ってしまうという事件もあったようです。

 

吹奏楽部の末路

野庭高校の吹奏楽部は、中澤忠雄先生の後を引き継いで、卒業生の平島嵩大さんが吹奏楽部を指導していましたが、全国大会への出場は叶いませんでした。

 

そして、2003年(平成15年)4月に神奈川県立横浜日野高等学校と合併し、野庭高校・吹奏楽部をの歴史は幕を閉じました。

 

まとめや感想

今回は、野庭高校・吹奏楽部と中澤忠雄先生についてまとめてみました。

 

1975年に開校して以来、ヤンキー高校として知られていた野庭高校の吹奏楽部を、いろいろな問題と立ち向かいながら全国大会で金賞を受賞させた、中澤忠雄先生の指導力は本当に凄いなと思いました。

 

中澤忠雄先生は、草むしりをしない部員に激怒して退部させるという厳しい面がある一方で、自宅に吹奏楽部の部員を招いて、毎日のように料理を振る舞っていたそうです。

 

学校からの部活嘱託員への報酬は1万円で、吹奏楽部に力を入れた影響で音楽教室の収入は減り、赤字状態。

 

それをみかねた吹奏楽部員の父親が父母会を立ち上げ、吹奏楽部への支援の一環として、中澤忠雄先生に謝礼を渡していたというエピソードがあるそうです。

 

野庭高校の卒業生には高島礼子さんがいますが、高島さんの生年月日は1964年7月25日なので、高校を卒業したのは留年などしていなければ1983年3月。

 

中澤忠雄先生が1982年に吹奏楽部の指導を始めていて、1年間は時期がかぶっています。高島さんは中澤先生の事を知っているのかな?とも思いましたが、高校時代は結構ヤンチャだったようですし、接点がなさそうですね。

 

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