井伊直虎と井伊直弼の関係を家系図で調査!結婚や子供、母親は誰?

こんにちは!

 

井伊直虎(いい なおとら)と
井伊直弼(いい なおすけ)との関係を
調べるために家系図を作成してみました。

 

井伊直虎は、井伊直親(いい なおちか)と
婚約したと伝えられていますが、
結婚はしていないそうです。

 

井伊直虎の父親は井伊直盛で、
母親は新野親矩の妹・祐椿尼です。

 

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井伊直虎と井伊直弼の関係を家系図で調査!

 

kakeizu

 

上の家系図は、Wikipediaを参考に、
井伊直虎から井伊直弼までを辿って
Excelで作成したものです。

 

井伊直虎と井伊直弼の
関係の参考にしてみて下さい。

 

井伊直虎が死去したのは、
天正10年8月26日(1582年9月12日)。

 

その233年後、
文化12年10月29日(1815年11月29日)に
井伊直弼が誕生しています。

 

クリックで拡大できます。

 

直盛→直親→直虎→直政へ

井伊直虎(いい なおとら)は、遠江井伊谷城主・井伊直盛(いいなおもり)と、その妻・祐椿尼(ゆうちんに)の子供で、一人娘のようです。

 

直虎が生まれた年は明らかになっていませんが、天文5年(1536年)前後ではないかと言われています。

 

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、幼少期の名前が「おとわ」となっていますが、実際には分かっていないそうです。

 

井伊直盛には男の子供がいなかったので、直虎は父・直盛の従兄弟にあたる井伊直親(いい なおちか)を婿養子に迎える予定だった。

 

しかし天文13年(1544年)、直親の父・井伊直満(なおみつ)が、今川義元(いまがわ よしもと)への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親は井伊家の領地から信濃に逃亡。

 

そして、直親の婚約者だった直虎は、龍潭寺(りょうたんじ)で出家し、次郎法師という出家名を名乗ることに。

※次郎法師という名前の由来は、井伊氏の2つの惣領名、次郎と法師を繋ぎ合わせたものだということです。

 

直親が弘治元年(1555年)に今川氏へ復帰した時には、奥山親朝の娘を信濃で正室に迎えていたので、婚約者だった直虎と結婚する事はなかったようです。

 

その後、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で、直虎の父・直盛が戦死し、その後、直盛の従兄弟・直親が養子として後を継いだ。

 

その直親も、永禄5年(1562年)に小野道好の讒言(ざんげん)によって、今川氏真に殺害される。

 

その時、直親には虎松(井伊直政)という子供がいたが、まだ2歳と幼かったので、井伊氏の家督を直親の養父・直盛の娘で、かつての婚約者・次郎法師が還俗(げんぞく)し、直虎に名前を変えて継ぐことに。

 

直虎は、かつての婚約者・直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、直政が15歳になった天正3年(1575年)に徳川氏に出仕させた。

 

そして、天正10年(1582年)8月26日に直虎が死去し、井伊家の家督を直政が継ぎました。

 

直政から直弼までの井伊氏当主

井伊氏(いいし)の初代当主は、井伊共保で1032年(長元5年)家督を継いで、故郷の井伊谷に居館(井伊谷城)を構えて井伊氏を称したと言われています。※諸説あるようです

 

その後、宗綱→共章→共家→共直→惟直→盛直→良直→彌直→泰直→行直→景直→忠直→直氏→直平→直宗→直盛→直親→直虎と引き継がれていきました。

 

直虎は数えると20代目の当主ということになりますが、代数には含めないのが慣例なんだそうです。なので、直虎は飛ばして直政が20代目になるようです。

 

井伊直政の正室の妻は、徳川家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)で、側室は伊具。直勝、直孝、政子、德興院と4人の子供に恵まれます。

 

「井伊の赤備え」という直政が組織した部隊は、戦国屈指の精鋭部隊として特に有名です。

 

「徳川四天王」「徳川十六神将」「徳川三傑」に数えられる直政は、戦国無双シリーズのゲームや小説にも登場しています。

 

【21代当主・直孝(なおたか)】

直政の死後、正室の子供で長男の直勝が家督を継いでいましたが、家臣団をまとめ切れなかったので、側室の子供で次男の直孝が井伊家の家督を継ぐように徳川家康から命じられました。

 

直孝の正室は蜂須賀家政の娘・阿喜姫で、 直滋、松千代、直寛、直縄、直澄と5人の子供に恵まれました。

 

【22代当主・直澄(なおすみ)】

直孝の後に家督を相続したのは五男の直澄ですが、元々は長男の直滋の予定だったそうです。

 

万治元年(1658年)に直滋が突然出家した為、翌年に直澄が世子になり、父・直孝の死後当主になりました。

 

直澄は「子供が生まれても後継ぎにしてはならない」という、父・直孝の遺言があったので、正室はなく、側室との間に授かった子供も、家臣の分家に入って 中野宣明と名乗ったようです。

 

【23代当主・直興(なおおき)】

直孝の遺言には、直澄の兄・直縄の子で甥にあたる、直興に後を継がせるようにというものもあったそうです。

 

遺言通り、直興は寛文12年(1672年)11月27日に、直澄の養子になり、直澄が亡くなった延宝4年(1676年)に家督を継ぎました。

 

直興は、蜂須賀隆重の娘と結婚し、正室になる予定でしたが、結婚式までに亡くなってしまいました。

 

その為正室はいませんでしたが、平石氏、田山氏、玉米氏、大橋氏という4人の側室の子供が、直通、直恒、直矩、直惟、直定の男5人と、4人の娘がいたそうです。

 

直興は元禄13年(1700年)3月2日、病気を理由に大老を辞任して国に帰り、翌14年(1701年)3月5日に次男の直通に家督を譲って隠居し、その年の12月に直治という名前に改名しました。

 

【24代当主・直通(なおみち)】

直通の母は玉米氏で、正室は三条実治の娘でした。元禄2年(1689年)8月15日生まれの直通は、11歳という若さで直興から家督を譲られて藩主になります。

 

しかし、宝永7年(1710年)7月26日に22歳という若さで、父親より先に亡くなり、後継ぎとなる子供もいなかった為、弟の直恒を養子にして家督を継がせました。

 

【25代当主・直恒(なおつね)】

直恒は元禄6年(1693年)3月16日に、直通の異母兄弟の弟として江戸に生まれます。

 

宝永7年(1710年)3月に兄・直通が直恒を後継ぎにするように決め、兄が死去した年の8月12日に養子となって家督を継ぎました。

 

しかし、その後すぐに直恒も病気になってしまい、2か月後の10月5日に18歳という若さで亡くなっています。

 

【26代当主・直該(なおもり)】

直通と直恒の兄弟が若くして亡くなったため、まだ幼い弟達が成長するまで、隠居していた父親が再登場します。

 

隠居後、直興から直治に名前を改名し、剃髪して覚翁と号していたのを還俗して直該とまた改名。藩主に再立した翌年の正徳元年(1711年)2月13日に大老に再任したそうです。

 

その4年後、正徳4年(1714年)2月15日に5男の直惟が元服したので、直惟に家督を譲って再び隠居し、名前を直興に戻した後、出家して全翁と改めました。

 

【27代当主・直惟(なおのぶ)】

直惟は、元禄13年5月1日(1700年6月17日)に生まれ、直興と側室の田山氏との間に生まれました。

 

正徳4年(1714年)2月15日に直惟が15歳になると、父・直興(直該)から藩主の座を受け継ぎ、正室・蜂須賀綱矩の娘、側室・梅原氏との子供、 直禔、直幸や娘4人を授かりました。

 

直惟も兄2人と同じように病弱な体質だったので、享保20年(1735年)5月9日に病気療養を理由に、弟の直定を養子にして家督を譲り、翌年の6月4日に37歳で亡くなっています。

 

【28代当主・直定(なおさだ)】

井伊直定は、 元禄13年2月13日(1700年4月2日)、父・井伊直該(直興)と側室・平石氏の子供として生まれました。

 

兄達が早くして亡くなってしまう中、一番長生きした人物ですが、やはり病弱な体質は同じだったようです。

 

その為、隠居生活に入ろうとするも、まだ実の子・直賢が幼かったので、宝暦4年(1754年)6月19日に、兄・直惟の子で甥にあたる直禔を養子として家督を継がせました。

 

【29代当主・直禔(なおよし)】

井伊直禔は、享保12年9月8日(1727年10月22日)、父・井伊直惟と内藤氏の子供として、江戸藩邸で生まれました。

 

叔父・井伊直定が病気療養に入るため、まだ幼ない直定の実子・直賢に変わって、直定の養嗣子として迎えられ家督を継ぐことに。

 

しかし、間もなく直禔が急な病気になってしまうと、直禔は上野館林藩藩主で、越智松平家3代目の松平武元を養子に迎えたいと幕府に申し出ます。

 

幕府が井伊家の血筋を重視した為、直禔の提案は通らず、病気療養で隠居していた先代の直定が再び井伊氏当主になりました。

 

直禔は、宝暦4年8月29日(1754年10月15日)、28歳の若さで亡くなっています。

 

【30代当主・直定(なおさだ)】

宝暦4年(1754年)6月19日に甥の直禔に後を継がせ、隠居生活に入ろうと彦根に下ろうとしていた矢先に直禔が病に倒れ、2か月後の8月29日に再勤した直定。

 

今度は翌年の宝暦5年(1755年)に、直禔の弟・直幸を養子として迎えて再び隠居生活に入ります。

 

そして、 宝暦10年2月8日(1760年3月24日)に死去。享年61歳だったそうです。

 

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【31代当主・直幸(なおゆき)】

井伊直幸は、享保14年7月21日(1729年8月15日)、父・井伊直惟と母・堀部氏の子供として生まれました。初めは直英(なおひで)という名前でしたが、後に直幸になっています。

 

父・直惟が亡くなった時はまだ5歳だったので、家督を継ぐことができず、叔父の直定に譲られました。

 

その後、兄・直禔の急死や当主に復帰した叔父・直定の再隠居などを経て、直定の養子になり、宝暦5年(1755年)に当主の座に就きました。

 

直幸は、寛政元年(1789年)2月26日に61歳で亡くなるまで、当主の座を全うし、後継ぎは六男の直中になりました。

 

【32代当主・直中(なおなか)】

井伊直中(いい なおなか)は、 明和3年6月11日(1766年7月17日)、父・井伊直幸と母・井伊直存の娘との間に生まれました。

 

直中の14男は井伊直弼で、側室の君田富(お富の方)との間に生まれています。

 

本来の後継ぎだった兄・直富が早くに亡くなったため、天明7年(1787年)9月に直中が後継ぎになり、父・直幸の死後当主となりました。

 

そして、文化9年(1812年)2月3日に家督を三男・直亮に譲り、隠居生活を送った後、天保2年(1831年)5月25日に66歳で亡くなったそうです。

 

【33代当主・直亮(なおあき)】

井伊直亮は、寛政6年6月11日(1794年7月7日)、父・井伊直中と母・南部利正の娘との間に三男として生まれました。

 

兄の直清が病弱だったので、文化2年(1805年)に父・直中から後継ぎに指名されると、文化9年(1812年)2月5日に直中の隠居に伴い、家督を継いで当主に。

 

直亮は子供に恵まれなかったので、直中の十一男で弟の直元を養嗣子としてたが、弘化3年(1846年)に早くに亡くなったため、十四男の直弼を代わりに養嗣子としました。

 

その後、嘉永3年(1850年)10月1日に享年57歳で亡くなり、直弼が後を継ぐとになりました。

 

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【34代当主・直弼(なおすけ)】

井伊直弼は、文化12年10月29日(1815年11月29日)、父:井伊直中と母:お富の方との間に生まれました。

 

小さい頃の名前は、鉄之介(てつのすけ)から鉄三郎(てつさぶろう)に変わり、諱(いみな)が直弼(なおすけ)になります。

 

文人・画家・書家などが本名以外に付ける風雅な名とされている雅号(がごう)として、「埋木舎(うもれぎのや)」「柳王舎(やぎわのや)」「柳和舎(やぎわのや)」「緑舎」「宗観(そうかん)」「無根水(むねみ)」というたくさんの呼び名があります。

 

また、井伊直弼の歴史を語る上で有名な安政の大獄以降は、「井伊の赤鬼(いいのあかおに)」という渾名(あだな)で呼ばれていたそうです。

 

直弼は父・直中の十四男として彦根城の二の丸で生まれ、兄弟が多い事に加え、母親も側室だったお富で、庶子(しょし)だったこともあり、養子の口などもありませんでした。

 

しかし、弘化3年(1846年)、三男の兄・直亮の後継になっていた十一男の兄・直元が死去したため、兄・直亮の養子として、彦根藩の後継者になれることに!

 

その後直亮が亡くなり、嘉永3年(1850年)11月21日、晴れて家督を継いで藩主の座に就き、嘉永5年(1852年)には丹波亀山藩主松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を正室に迎えます。

 

そして、直弼が桜田門外の変より享年46(満44歳)で亡くなった後は、次男の直憲が家督を相続し井伊氏35代当主になり、直憲は近江国彦根藩の最後の藩主となりました。

 

その後、36代・直忠、37代・直愛、38代・直豪と家督が引き継がれ、現在は39代・直岳(本名・岳夫)さんが井伊家の当主を引き継いでいます。

 

最後に

井伊直虎と井伊直弼の
関係や繋がりが気になったので、
家系図と辿って調査してみました。

 

直虎は19代・直親と20代・直政との間に
井伊家の当主を務めていましたが、
何故か代数には数えられないそうです。

 

歴代の当主たちにはそれぞれの
背景があり、調べていると面白くて
止まらなくなってしまいました。

 

大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、
それがどのように描かれていくのかが
とても楽しみになってきました☆

 




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